無理なものは無理だと思っている

例えば脳卒中後、数年が経ち、足関節は内反尖足に変形し、下肢の運動もほとんど不可能な患者さんで、歩けるようにリハビリテーションをして欲しいという依頼があるとする。

 

そういった患者さんを前に歩けるようにしますと言うことはできないが、リハビリテーションを行っても歩けませんと言うこともできない。その場合、初回のリハビリテーション後に、現状とこれから目指すものを説明する。そこには「歩けるようになる」と受け止められる言葉は使わないように注意する。トイレや車椅子移乗などで転倒せず安定してできるように、運動麻痺のある足にも多少の体重を載せて立てるようになど、可能だと思われる目標を説明する。

 

それでも何ヶ月、何年と経った後、「いつになったら歩けるようになるのか?」と聞かれるかもしれない。その時、歩くのは不可能ということを伝えることができるか?と聞かれれば否となってしまう。遠回しには答えるかもしれないが、ダイレクトには言うことができない。

 

心の中では「無理なものは無理。今の運動機能と回復具合などによりリハで目指せる所は決まってしまうのだ」と思っている。しかし、それを言うことは、いい意味でも悪い意味でも”最期の望み”になっている現状のリハビリテーションでは難しい状況だ。少しずつ少しずつ暗闇の中にある微かな光を探しながら、それに向かって患者さんと一緒に歩いていくしかない。私にはリハビリテーションというものが、ピカピカ光り輝く素晴らしいものというよりは、薄暗い光でしかない。もちろんそれは個々の技術によるものが影響しているのかもしれないが、現状の私にはそういうものなのだ。

 

だからダラダラ長く続いていると言われてしまうが、患者さんと少しずついろいろな光を探し続けて行くことで、自分を納得させている。