自宅で死ぬためには相応のお金が必要

私が学生の頃や、病院で働き始めた頃には「病院で死ぬ」のではなく「自宅で死ぬ」という事が医療費を削減したり、これまでとは違うより理想的な死に方のような雰囲気が周りにはあった。重要なのはあくまでも周りの雰囲気であったということで、実際にはそんなことはないという事は、知っている人(多くは医師)は知っていた。

 

訪問医療関係の研修会に出席した時、これから訪問看護や訪問リハビリテーションが期待されるような雰囲気の中、ベテラン療法士が講師である大学病院の医師に質問した。「もっと国は訪問看護リハビリテーションに力を入れるべきだと思います。そうすれば病気の増悪を防ぎ、無駄な医療費が減って、医療費の削減につながるはずですが」との質問に、その医師はひとこと「そんなことはあるません。在宅サービスを充実させることで更に医療費や介護費は増えます。それはもう論文にも報告されていますし、医療経済では当たり前の話です」。その時の話をこうして今でも覚えているわけで、当時の私としてはそれなりの衝撃だったようだ。

 

今では実際に在宅サービスに関わって、人が最期まで自宅(サービスが集約される高専賃などは除く)で生きて死ぬことはかなりのお金が必要となることを目の当たりにすることが多い。そしてそのお金は、患者さん自身はもちろん社会福祉費用として多くの現役世代のお金から支払われている。患者さんに関わる医療職・介護職の人たちはどうしてその患者さんの望みを叶えようとし、最大限利用できる制度を使う。もちろん既存の制度を使って悪い事は何もない。しかしそれが積み重なると莫大な金額になることは事実である。

 

恐らく充実した在宅サービスを受けて「自宅で死ぬ」ということはこれから十数年の間だけ可能なことだろう。それから後の世代は死ぬための施設(病院ではない)に入って、必要最低限ギリギリの医療・介護サービスを受けて死ぬことになるだろう。もちろんお金を持っていれば充実したサービスを受けて死ぬことは可能だろう。ただ忘れてはいけないのは、そういう人たちは現役時代に多くの人たちを支えるだけの税金を納めていたというこでもある。