訪問リハビリテーション日記

訪問リハビリテーションの仕事をしています。仕事をしていて考えたことを日々書いています。

医学としてのリハビリテーションを提供したい

訪問リハビリテーションをしていると、急性期病院に比べてその医療色はかなり薄くなる。「医療」と「介護」の厳密な定義は?と聞かれると難しいが、介護色が強くなってくるのが、訪問でのリハビリテーションである。人によってはリハビリテーションとは?という定義から始まり、その範疇を広げていき、病院でのリハビリテーションが狭義のものでしかないと、私のような考え方をすると厳しく非難される。

 

面従腹背で、こういったある種イデオロギー論争に近いものは話し合っても着地点がないことは、これまでの経験から嫌というほど味わっているので、表向きはリハビリテーションについて「医療色」と「介護色」などという表現は使わないようにしている。しかし、本心は患者さんの体の問題点を厳密に評価してそれに対してどういう運動療法や動作訓練が必要かをできる限り考えるようにしている。そしてそれこそがあるべきリハビリテーションであると思っている。どこまでも医学としてのリハビリテーションを追い求めることが必要だと考えている。それを忘れると、単なる介護でしかなくなる。

 

個人経営の感覚

病院などの母体ではない、訪問看護ステーションで働く療法士は「そこに勤める」という感覚はあまり持たない方が良いのかもしれない。そういった訪問看護ステーションは世で言う、「中小企業」なんてレベルよりももっとずっと小さいレベルの職場である。

 

退職金は無いことが普通だろうし、あってもスズメの涙程度である。だから何も考えずに会社を信じて働き続けたところで、将来は生活保護を受けなけれなならない可能性も考えずにはいられない。

 

それを避ける手段としては、体と頭が動く限り働き続け、そして今ある資産を増やす方法を取っていくしかない。自分自身の人的資本と金融資本を出来るだけ生産効率よくまわしていくことが必要となってくる。

 

療法士としてはまず、大人から子ども、整形疾患から中枢神経疾患に難病と廃用症候群、などに対応できる知識と技術をブラッシュアップし続ける。そして得た収入のいくらかをを金融投資などの方法で増やしていく。当然そのための勉強も必要となってくる。

 

まるで自分自身が個人商店を経営しているかのように生きていくしかない。

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面倒くさいケアマネ

時々かなり「面倒くさいな」と感じるケアマネに遭遇する。利用者第一が強すぎて療法士の意見に聴く耳を持たないのがそれだ。こういうケアマネはとりあえず人の話を聞かない。利用者としては自分の言いなりなるので、良いケアマネと感じるのだろうが、多職種としては一緒には仕事をしたくない。

 

しかしこれは結果として利用者の不利益にも繋がってくる。なぜならば、そういう面倒くさいケアマネとは正直できるだけ関わりたくないので、利用者に対してもこちら側も無難なサービスに終始するからだ。もっとこういうふうな環境設定なりリハビリテーションをすれば次のステップアップになるかもしれないと思えても敢えてリスクを負おうとする気持ちが起きないからだ。

 

療法士としては病院時代から絶えず医師や看護師等と多職種連携という言葉を聞かされながらチームワークに細心の注意をしてきた。それが上手くいけば患者さんにとっても、患者さんに関わる多くの職種にしても良い影響が出ることは実感してきた。ケアマネあっての訪問リハビリテーションという仕事の部分が大きいが、それでもできるならば「面倒くさいケアマネ」とは一緒に仕事をしたくない。もちろん素晴らしいケアマネも多くいることも事実である。

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保険制度に頼らないサービスを

保育士さんが不足している、あるいはその仕事の大変さの割には給与が低い話が上がっている。それと同様に介護士の給与の低さも度々話題に上がる。特にこの選挙時期には、票取りを狙ってか、彼らの給与の向上を目標に掲げる政治家も出てくる。

 

療法士も正直に言って会社員などに比べるとその所得水準はけっして高くはない。夜勤などもないので、所得を上げるには休みに訪問リハビリテーションなどのアルバイトをする他にない。

 

私個人はそれについては特に言い分はない。仕方がないと思って受け入れている。療法士の場合、そのサービスに対して利用者の負担は1〜3割であり、残りは保険料や税金から出ている。それほどに固い収入源である代わりに、サービスの料金は国によって決められている。そのため給与がある一定額以上は上がらないのは当たり前だ。

 

今後の国の財政事情や保険制度の変更の中で訪問看護事業所として生き残って行くには淡々とあるべきサービスを行っていくしかない。そうしていけば大きな利益は望めないが、食うに困るというほどにもならないだろう。しかしもっと所得を上げたい、利益を上げたいと考えるならば、そういった保険制度から出て成り立つサービスを考えるしかないのだ。保険制度の中でセコセコと通所サービスを新たに行うとかを考えても大してできることはない。何故なら保険制度の中では、”生かさず殺さず”という国の考え方が少なくともリハビリテーション程度の仕事の中では成り立っているからである。

 

民間の介護サービスや保育サービスの中には富裕層を対象にした全く独自のサービスを行い始めた所もある。そういった保険制度の外で、し烈な競争を勝ち残っていけばこれまで保険制度内で守られていた以上の報酬を手に入れることができるだろう。もし給与をもっと上げたいと考えるならそういった頭を使った方法か、アルバイトなど体を使った方法かいずれかになる。

訪問リハビリテーションの将来はどうなるのか

選挙後に一気にいろいろな話が出てきそうな来年度の介護報酬改定である。様々な憶測が飛んでいるが私のような一療法士にはどうこうできるものではなく、ただ決まった法令に従うまでだ。

 

療法士の中には高い意識を持っている人も多く、これからの訪問リハビリテーションは云々と述べられたりしている。なるほどとは思うものの、結局は色んな方向を見てなるべく多くのひとが我慢できるように法令は出来上がっていくのだろうなと不謹慎ながら思っている。いろいろ問題にはされているが、所詮は介護の話である。それ自体がこの国の行方、将来を明るいものに変えていくとは思っていない。当事者は大変だろうがそれも一時期のことだ。人間いつかは亡くなる。

 

私も関わるからには少しでも体が動くように、生活を維持できるようにしたいと思っている。と同時にこれからの訪問リハビリテーションや介護についてどうも熱を入れて考える気が起きないのも事実である。食べて行くために、子供を育てるためにその時にできる最大限の事をする中での、訪問リハビリテーションという仕事でしかない。現在のことで精一杯である。

 

 

雨の日の思い出

雨が続いている。訪問リハビリテーションでは移動は自転車で行っているので、雨の日は雨カッパに長靴を身に着け、カバンは大きなゴミ袋に入れている。

 

初めのうちはキレイな雨カッパも、月日とともに汚れが目立ち、裾は破れていたりもする。そんな姿で公衆トイレを借りていたある日、「お疲れ。雨ばかりで嫌になるな」と声をかけられた。見ると、所謂”ホームレス”と見られる人である。まさか自分がそういう人に挨拶されるとはこれまで思ってもみなかったが、鏡に自分の姿が映ると納得できた。

 

それからすぐに新しい雨カッパを購入した。ある雨の日の思い出である。

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びっくりする家

訪問リハビリテーションに行くとこれまで経験した事のないことに出会う。そのひとつがネズミとの遭遇である。

 

これまで家の中にいるネズミというものを見たことがなかったのだが、訪問リハビリテーションの仕事をするようになって患者さんの家で何度か見る経験をした。

 

ハッキリ言うと一生出会いたくない存在ではある。しかし、いるものは仕方がない。患者さんの方も見慣れているのか、「たまに出るけど大丈夫。襲って来たりはしなよ」と。ゴトゴトっと、屋根を走ったりするのが聞こえてくると思わず体に力が入り、リハビリテーションどころではなくなる。早くどこかへ行ってくれと願い、音が聞こえなくなるとまた仕事に集中できるという具合である。

 

この他にも、放置されて生き続ける亀の水槽から漂う異臭や近づいてきては足をなめ続ける大きな犬など、その家々にあるあまり嬉しくない特徴の中での仕事が訪問リハビリテーションでは待っている。

 

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