訪問リハビリテーション日記

訪問リハビリテーションの仕事をしています。仕事をしていて考えたことを日々書いています。

運動能力の影響

リハビリテーションを行なっている時、ひとつの目標はある動作が出来るようになることである。それは寝返り、立ち上がり、あるいは歩行であったりする。その動作訓練を行うにあたって、単純に言われた動作を繰り返す人と、動作する毎に何かしら考えて行う人とがいる。

 

例えば立ち上がりの練習をする時、ただ上方向に立とう立とうとする人がいたとする。重心をいったん基底面から外すようにしてもらいたいので、「お辞儀をするようにして立ってみましょう」と動作誘導と一緒に伝えたとする。ある人は単にお辞儀をするだけであるが、中には「ああ、そうすればお尻が浮いてきて立ちやすくなるのが分かってきた」という人もいる。実際のところ繰り返す動作練習の中でで掴んで欲しいのは”お辞儀して立つ”ということではなく、重心を前方に移動させて基底面から外すことで上方向に立つ動作が出来るようになるということである。

 

しかしそういったことを逐一言葉で説明してしても動作に結びつけるのは実際にその動作を行う本人であり、その動作する感覚自体を伝えることは出来ない。だからこそ繰り返して、体に覚えてもらうのである。

 

最近若い患者さんや水泳等が得意だったという高齢患者さんに出会うと彼らが言葉には出さないもののそういった動作する感覚を掴むのが非常に上手いなと感じることが少なからずあった。こういった生まれもっての運動能力というものがリハビリテーションにも影響するようだ。

 

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リハビリテーションの研修会

これまでいろいろな種類のリハビリテーション関連研修会に参加してきたが最近はまったく参加することがなくなった。

 

その理由の大きなものが、お金と時間がないということである。子どもがいない頃は金銭的にも時間的にも余裕があったが、子どもが生まれてからはその両方に余裕がなくなった。と言っても本当に参加する価値のあるものならば参加するだろう。しかし残念ながら私が参加したり、知る範囲ではその価値を見いだせないものが殆どになってきた。療法士になったばかりの頃は全てを身につけたいとがむしゃらに参加してきた。その頃は知らないことだらけで、そのどれも価値があると思ってた胸踊らしながら研修会に行っていた。だが経験を経て、そのほとんどが行く価値のないものとなった。時間とお金の無駄だである。

 

今では専門書や論文を読み、目の前の患者さんについてしっかり考え、しっかりと筋肉をはじめとする身体に触れることで少しずつではあるが研鑽できる。リハビリテーション関連の研修会のほとんどは時間とお金を出すに値しないのが残念だ。

 

 

終の住みかについて

訪問リハビリテーションの患者さんで最近増加傾向なのは、高齢者専用賃貸住宅(高専賃)や老人ホームに住んでいる人たちである。一方でこれまで過ごした自宅で暮らしている患者さんはまだまだ多い。高専賃や老人ホームと従来の自宅で暮らしている人たちの違いはと言うと、身体的な介護度の大きさと言うよりは、認知症の程度や判断力の低下がその分かれ目になっている印象である。

 

身体的な理由で介護が必要な場合、訪問介護訪問看護等での日々の生活は何とか維持できている。しかし、認知症などにより理解力や判断力が低下した場合、誰もいない状況というのがかなり問題となってくる。それは生活行為の問題ではなく、深夜に出歩く、外出したまま帰り道が分からなくなり警察の保護を受ける、本人は自覚していないものの近隣への迷惑行為があるなどまったく性質違ったものである。

 

その場合生活空間自体を管理する必要があり、結果として高専賃や老人ホームが終の住みかとならざるを得なくなる。終の住みかがどこになるのかは、体だけの問題ではない。高齢になるほど認知症になる可能性はずっと高くなり、今のところ終の住みかとしては高専賃や老人ホームがもっとずっと多くなる。そうなると訪問リハビリテーションの患者さんの割合も今とは逆になる。

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失認タイプと失行タイプ

脳卒中リハビリテーションを行なっている時に一筋縄で行かなくなるのが、運動麻痺だけではなく高次脳機能障害がある患者さんの場合だ。高次脳機能障害と言っても非常に多くの種類がある。急性期病院で働いていた頃は脳卒中の患者さんを担当するとまず何らかの高次脳機能障害を持っていないかを疑って関わるようにしていた。なぜならば、高次脳機能障害があることで、通常の運動療法や動作訓練での関わり方が大きく変わってくるからだ。

 

きちんと検査等をしてこの患者さんはこういった高次脳機能障害をもっていると判断しなければならない。しかし、その検査そのものが患者さんによっては実施不可能であったり、検査でははっきりと症状が出ないが日常の動作を見ていると何か変だと思わせるような患者さんが多い。これはこの高次脳機能障害だと分かるような例が専門書では書かれていたり、症例発表になることがほとんどだが、日々の臨床ではそうはっきりしないことの方が多い。だからこそまず高次脳機能障害を疑ってかかることが見落としを防ぐために重要であった。

 

しかし中々分かりにくく、難渋していた。そこでリハビリテーション専門医の一人が言っていた非常に大まかな捉え方が役に立った。高次脳機能障害を専門にしている医師や療法士からすると大いに批判されるようなものだ。まずは日常の動作で何か変だと思わせるような患者さんの場合、失認タイプか失行タイプかを判断する。失認タイプは文字通り、自分の体や動作を認識できない。だから言葉かけ等で徹底的に動作方法や運動麻痺のある側の体を意識させる。その繰り返しで運動療法や動作訓練を行う。一方で失行タイプは、ある動作自体を意識させると一気に混乱してきちんとその動作が出来なくなる。例えば歩行練習で「足を前にしっかり出して踵から下ろす」などといちいちその動作を説明して意識させると非常にぎこちない歩き方になったり、全く足を振り出せなくなるなどが生じる。だからなるべく動作を意識させるような言葉かけは止め、簡単に「歩いてみましょう」などと行うどうさを伝えて適時動作を介助する練習が必要となる。失認タイプと失行タイプでは全く違ったアプローチとなるのである。

 

先日仲間内での症例発表で「プッシャー症状」なる言葉が出てきて、失認タイプと失行タイプの話を思い出した。恐らく「プッシャー」などという捉えどころのない考え方よりもずっとこの方が臨床では役に立つはずである。

不都合な真実

残酷な「遺伝の真実」あなたの努力はなぜ報われないのか(安藤 寿康) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)

 

知能と遺伝は大きく関係があること、音楽的才能や身体的特徴(身長や体重)は遺伝がさらに大きく関係することはもう大分前から分かっていることらしい。それでも、努力すれば何とかなると私たちは思い、あるいは思い込まされ学生時代からそして今でも頑張っている。努力することや頑張りは素晴らしいことであり、大切なことである。しかし、頑張っても同仕様もないことがあることを先の知能や音楽的才能と遺伝との関係性から思い知ると何ともやるせなくなる。一方で、皆が前ならえで同じ方向で努力するのではなく、自分に適した方向へ努力すればそれは結果として現れることになることも分かる。

 

同じように病気や障がいに関しても人の体である以上現段階で可能なことは研究され数値化されていることが多い。この病気にはこの治療法が最適で治癒の見込みはどれくらいであるとか。通常のリハビリテーションも一応医学であり、どの病気や障がいへどの運動療法がどれくらい結果をもたらすかは分かっているものもある。だからこそ心身の機能を回復させることだけではなく、日常生活動作や社会参加を促す方法をいろいろ考えることも重要だと言われている。

 

ここまでの遺伝の話や病気の話は確かに真実ではある。しかしその真実を受け入れられる程の頭の柔軟さや広さを持っているか個々人で異なる。子ども頃からただ努力することが正しい生き方だとして育ってきた私たちにはその柔軟さをもつことは難しいことだ。その努力は誰にも否定できない。不都合な真実を受け入れられるかどうかはたとえ間違っているとしても最終的には個人によるしかない。

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若いという事はいい事

「医療的ケア児」、診療報酬手厚く 訪問看護:朝日新聞デジタル

 

小児から90代の人まで年齢層広く訪問リハビリテーションで関わらせてもらっていることは本当にありがたいことだ。病気を抱えながらの生活について幅広い視野を得られるし、リハビリテーションの知識や技術を向上させることができる。

 

しかし何よりありがたいのは、若い子や人のリハビリテーションに関われる機会があることである。彼ら彼女らはその若さから病気と一緒に生きて行かなくてはならなず大変だと実感する。それでも若さから溢れ出るエネルギーは、そういった試練をも特に忘れさせる。私自身も彼らが大人になった姿や現在の職場や家庭での姿を想像しながらリハビリテーションを行なっている。会話やその表情などに若さというエネルギーを感じさせてくれ、サービスを提供する側にも関わらずこちら側が日々リハビリテーションの仕事を行なっていくエネルギーをもらっている。それ故に自分の提供するリハビリテーションが彼ら彼女らの人生に大きく影響するという重さもより感じている。

男尊女卑な世界

女性が社会進出をして活躍するようになった。そして結婚し子どもができた後も夫と家事や育児を分担しながら暮らす家庭が当たり前になった(夫の家事や育児の割合はまだまだ低いが)。そういう環境で育ち、ごく自然に暮らしている私は、訪問リハビリテーションで訪れる家庭の中でまるで社会科の教科書に載っていたような「男尊女卑」の世界を目の当たりにすることがある。

 

特に夫が大病して、障がいを負っている場合が目につく。確かに毎日の生活がいっぱいいっぱいではあるだろうが、それでも余りにも全てを妻に依存しすぎでは?と思うような方がいる。また妻への話しぶりもまるで召使いへ話しているかのような人もいる。こ療法士からの説明も全て妻に任せっきり等もよくあることだ。それでも恐らくそれまで生きてきた生活習慣からか、夫への愛情からか妻の方は懸命に夫の指示に従っている印象である。

 

私たちの世代ではそういった尊大な態度を妻にとるようならば、簡単に捨てられるだろうなと思いながら前世代の夫婦関係を見ている。

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