訪問リハビリテーション日記

「まーきゃる」と言います。訪問リハビリテーションの仕事をしています。仕事をしていて考えたことを日々書いています。

申請主義の穴埋めを出来る存在

病院で働いていた時には関わる制度は、医療保険だけだったし、その細かなところは医事課やソーシャルワーカーの方々に任せきりだった。しかし訪問リハビリテーションの仕事では、医療保険に加えて介護保険、また障がい者医療や子ども医療等にも関わらず得ず、基本的に事務関係も療法士がしなければならない状況になった。

 

そんな経験をして強く感じるのは、本当に細かな所まで考えられた保険制度の存在であり、その制度を十分に利用出来るかどうかは患者さんや患者さんに関わる人たちかかっているという現実である。「申請主義」というように申請しない限りは、あるいは「分からないから教えて下さい」と行動を取らない限りはせっかく存在するサービスにアクセスできない。通常であれば知らない、調べようとしなかった人間にも問題はあるが、患者さんと呼ばれる人たちは調べるという行動自体に問題があることがる。高齢者ならケアマネージャー等が存在するが、若年者になると市町村に助けを求めなければケースワーカー等が関わることが難しい。そしてそこにサービス必要な人とサービス提供者との間に穴がある。その穴を埋める存在が不在という現状をどうにかしないといけない。

英語とリハビリテーション

最近私は英語学習に熱くなっている。しかし今のところネットで海外ラジオを聴いてもほとんど理解できない。私の世代では英語教育は中学、高校の最低6年は受けて来ている。それでも海外の小学校や中学校レベルの会話でさえあやしい。自分で言うのもなんだが、中学高校の英語は得意科目のつもりだった。それでも会話という点では高校生の時から今まで全く歯が立たないままである。日本の中学校の英語教科書はクオリティが高く、完全にマスターすれば海外での最低レベルでの会話は可能だとされている。ではなぜ今でも会話という点では全く歯が立たないのだろうか。それは単純で、英語を使うという観点で教えて来られなかったし、学んで来なかったからだ。だから試験問題は日本語訳や文法問題として対応出来るが、英語を使った会話ができない。その点を克服しようといろいろな英語の先生たちがラジオや参考書、テレビやスクールなどで工夫している。それに沿って今私は英語の学習をイチからし直している。

 

さて、これは何も英語に限ったことではなく、どんなモノにも当てはまる問題である。知識として知り、その後それを使っているかどうかで本当に実用レベルになるかどうかが変わってくる。リハビリテーションやそれに関係する知識がいかに豊富でも現場でそれを使っていなければ、生かしていなければ臨床では歯が立たない。そのために得た知識はどんどん臨床で使っていくべきだ。口先だけでは私の英語と同じである。

現状の介護保険制度はこの10年で終了するかも

介護保険料、止まらぬ上昇 自治体の8割上げ :日本経済新聞

 

昨日日経新聞の記事だが介護給付費は医療費の伸びを大きく超えて増大しており、それを補うために介護保険料も大きく増大しているという話である。

 

介護給付費は過去10年間で57%の増加であり、この先にはまだ団塊世代というボリュームある介護予備軍が待っている。増税というニュースぬなり易い手段だけではなく、保険料の増大という目立たないところからしわ寄せが既に始まっている。サラリーマンは給与天引きのために給与明細書に目を通したりしない限りその負担増を意識しにくい。しかし実際にもう手取り給与の減少は少しづつ始まっているのである。

 

どう考えても現状の伸びが続くと介護保険制度が立ち行かなくなるのは明らかである。いづれは年をとって若い世代も介護が必要となると言っても余りにも負担増が過ぎると若い世代にとっては非常に酷な社会となる。そしてこういうデータが出たとしても現状の介護事業者は取れるうちに取り尽くせとばかりの動きを見せてくる。焼き畑農業のように、焼き尽くされた状況が予想される。

小児のリハビリテーション

病院で働いていた頃はほぼ全ての担当患者さんが大人だった。小児の担当になったのは指折り数えられる程度である。

 

訪問リハビリテーションの場で働くようになってからも小児の担当は圧倒的に少ない。ただ病院時代と変わったことがひとつある。それは関わる濃度である。訪問リハビリテーションではその子どもの生活、家族、環境、学校、体と心そのどれもが大人の患者さん以上に注意しなければならない。だからこそ大人の患者さんでは味わうことのできない、醍醐味を経験出来るのも事実だ。

 

さてそんな経験の中でまず気づいたのは、就学前から通園施設やリハビリテーション、医師に関わっていたとしても、圧倒的に運動経験が足りないということ。運動能力的には日常生活動作を行う事ができるレベルにあるにも関わらず、自宅で自分でやるという経験が少ない。そのため家族もできないものと思い、思っていた以上に過介助となっている。それがまたその子の運動経験を減らし、いつまでもできないままという悪循環となる。

 

親としても毎日の家事や兄弟姉妹がいればその子らの育児、仕事等でどうしてもじっくりと関わる事ができないこともある。環境設定や使う食具などを整え、どこまで出来るかをリハビリテーションや看護の方から本来は就学に示す必要があるのではないだろうか。それが私が思っていた以上に出来ていないのが現状だ。

 

子どもにとっては毎日の生活動作を自分で行う事は、体を使う経験と共に何をどうしようかという意思決定の場でもあり、それは単純な知能以上の認知機能の成長にとって欠かせないものだと思っている。子どもにとって運動するという事は、自分で生活(遊ぶということも含めて)するという事の始まりで、それは自分で何をするかを考えるとても大切な一歩だ。それは訪問リハビリテーション訪問看護でしかサポートできないことのひとつだと実感している。

まず主語と述語をはっきりさせる

チーム医療・介護ためにはコミュニケーションが重要ではあるけれど、訪問サービスなるとなかなか全ての職種が一同に会うということが難しい。そこに患者さんやその家族が加わると、ある情報について誰が具体的にどう言ったのか(行動したのか)が又聞きになる可能性もあり曖昧になってしまう。また日本語の特徴として主語が無くても会話が成立するということがある。したがって共有すべき情報の内容にかなりのノイズが加わるということが起こりやすい。

 

誰が何を言ったか、誰がどんな事をしたのか、まずは情報の中で最も重要な「主語」と「述語」をしつこい程に確認する事が重要だ。せっかくの貴重な情報を無駄にしないためにそれを心がけている。

コミュニケーションを確実にするために

訪問リハビリテーション訪問看護は言うまでもなく、ほとんどの仕事にとって情報の共有やチームワークは重要である。そしてそれを実現するために必要なのがコミュニケーションである。

 

コミュニケーション力を研きなさい、コミュニケーションを積極的に取りなさいということは既にどんな環境にいても周りから口酸っぱく言われてきた経験がある。しかしここで言われているコミュニケーションというのが、実はそんなに簡単なものではないのではないかもしれない。ある文章があり、それを読み、どういう事が書かれているかを理解するためには読解力が必要となる。この読解力は通常、小学校からの学校教育で育てられていくものだが、国語の授業でこの読解力を養っている事を意識した人がどれ程いるだろうか。しかしそれはとても重要であり、コミュニケーションにおける根幹でもある。書かれて文章だけでなく、話される会話内容がどういう事実を表しているのか、それを読み取る力が必要なのだが、読解力がないとそれが難しい。当然、コミュニケーションでは読み取ったり、聴き取ったりするだけではなく、文章として書いたり、話したりすることも必要であるが、それも確実に伝えたいことを伝える技術や能力がないと難しい。そしてそれは日常会話ではなく、仕事等のより複雑な内容になると一段と難しさを増す。つまりコミュニケーションが大事!と言われたところで、それを送受信出来る能力がないとなかなか意味のあるコミュニケーションをとることは難しいという事実があるのだ。言っても見れば、その人間の国語力が大きく影響するからだ。具体的に言葉で表現することよりも、雰囲気やニュアンスでなんとなく察することをコミュニケーションの比重として大きくしている一般の日本人の場合、実はコミュニケーションをとるということにかなりの難しさをはらんでいるのではないか。

もつれた人間関係を解いていく

訪問リハビリテーションに行っていると、その患者さんに生じている問題が患者さんの心身だけの問題ではないことがある。患者さんと同じ環境に存在する多くの人たちが更に患者さんの問題を解きにくくしている。

 

私たちは通常、職場、家庭、学校に属し、その中で親、兄弟姉妹、仕事仲間、友人、先生などとの関係性の中で生きている。患者さんなら更に病院で主治医、訪問サービスで療法士や看護師などもそこに加わる。

 

これらの人たちが上手く噛み合えば、そこに所属する患者さんの問題も少しづつ解決でき、良い人生を生きて行くことが出来る。しかし患者さんに関わる人たちの足並みが合わず、お互いが勝手な方向へと患者さんを引っ張って行くと問題解決のために前に進めるどころか、いったいどこに行こうとしているのかもはっきりしなくなり、患者さんの抱える問題は複雑に絡まっていくばかりになる。

 

特に所属する世界の多い患者さん程その事が問題になっていく。各専門職が自身の出来るサービスをしっかり提供することは重要である。しかしそれが意味を成してくるのは、問題を解くための方向がはっきりとし始めた状況である。専門バカとはその方向をはっきりとさせずに、ただひたすら自分の仕事だけを作業的に行う人たちである。

 

したがって、大きな問題を抱えている時にこそ、それぞれの人たちに方向性を確実に示せるように働きかけることの出来るコミュニケーション力、人間関係力、政治力、忍耐力といったトータルな頭の働きが必要になる。専門知識や技術よりももっと先に必要で、もっと重要なことである。しかし悲しいことに患者さんを囲む多くの人たちは何らかの専門職でありプライドが高い。全員の目指すべき方向を見つけのはそう簡単ではない。