訪問リハビリテーション日記

訪問リハビリテーションの仕事をしています。仕事をしていて考えたことを日々書いています。

訓練室でのリハと訪問リハとの違い

より生活に密着したリハビリテーションを患者さんの実際に生活している自宅で提供できるという事が訪問リハビリテーションのメリットのひとつに挙げられることが多い。しかし今回は訓練室でのリハビリテーションだからこそ可能なメリットを考えさせられたので書いておきたい。

 

ある子どもの歩行訓練の指示が主治医から訪問リハビリテーションへ出た。かつて通っていた通園施設で下肢装具を作製し歩行訓練を行っていたそうだが引越しのため通えなくなった。

 

訪問前までは下肢装具での歩行訓練をイメージしていたが、実際に会ってみると両足の運動麻痺や筋肉の過剰な収縮が見られた。とてもではないが装具を履いて歩行訓練をこなすというのは不可能なのだ。まだまだ相当な介助がないと全身に力が入ってただ歩かせているだけになってしまいそうだった。その時この子に必要なのは少しでも安心して歩けるための療法士の介助と更に平行棒等の物的介助の両方であった。

 

しかし自宅には当然だが平行棒の類はない。

この場合は恐らく訓練室での歩行訓練の方が通常は適している。この子にとって「歩行」とは、これから新たに獲得していく行為である。リハビリテーションで最も必要とされているのは今の生活環境での可能な移動手段の獲得ではない。そうは言っても何とか適切なリハビリテーションを提供しなくてはいけない。そのためにどんなリハビリテーションを、自宅の環境でどう提供していくか考えていくのが訪問リハビリテーションでのやりがいでもある。

どう生きるかを考える

訪問リハビリテーションを行っている私はあくまでもお金を稼ぐための仕事として患者さんその家族と関わっている。だから患者さんに必要な様々なことにも少々は我慢できている。しかし一歩距離を置いて、もしもそれが自分の家族ならばと考えるとその少々なことは結構な負担になる可能性がある。

 

そうしたいろいろな経験をしてくると、ふと自分の老いについて考えることもある。 それで国の将来を考えるとどうしても見通しは明るくない。だから当然自分自身身は可能な限り自分自身でどうにかしていくしかないという結論になる。「国が○○○してくれない」とか、「政治が○○○すべきだ」という方向の考え方よりも、まずは自分達でどう防御策をたてられるか、どう老いて死んでいくのかをある程度考えるようになる。

 

今周りには従来の考え方のまま生きていく人と、これまでとは違う、より「個」としての生き方を目指す人とがいる。ちょうどその転換期に私は医療・介護のサービス業に携わっている。

リハビリテーション専門医

私は療法士として3ヶ所の病院で働かせてもらったが有り難いことにいずれの病院でもリハビリテーション専門医がいて一緒に働くことが出来た。今となって振り返ると、リハビリテーションについての知識や熱意を持っている医師はリハビリテーション専門医以外にはおらず、医師の目から療法士として自分が行っていることを見て批判してもらえるのはとても貴重な経験だった。訪問リハビリテーションにたずさわってリハビリテーション専門医との関わりがゼロの今の状況からは余計にそう感じる。

 

一方で、もし今担当している患者さん達がリハビリテーション専門医の診察を受け、いろいろなことを相談できたら、今よりもっと充実した訪問リハビリテーションを受けられただろうと思ってしまう。医師不足の状況の中でも更にリハビリテーション専門医は数が少ない。だから将来的にも大規模病院のようにリハビリテーション専門医の診察を患者さんが受けられることは在宅ではほぼ不可能と言える。

 

しかし病院でリハビリテーション専門医から指導を受けたり、療法士として厳しく批評してもらえたなら、訪問リハビリテーションにたずさわる機会があればそれらは必ず生きてくる。そんな意味からもやはりリハビリテーション専門医のいる病院で経験を積んでから訪問リハビリテーションに関わる方が自分のためにも、そして何より患者さんのためにも良い。

いろいろ質問してもらえる有難さ

訪問リハビリテーションに行っていて、患者さんからなぜそうの動作が出来ないか?やどういう自主練習が良いか?を聞かれることは少ない。どちらかというと全てお任せという患者さんが多いのは事実である。しかし時々上記のような質問を自分自身が納得するまで細かく聞いてこられる患者さんがいる。

 

私としてはこれでもかとしつこく質問されることはとても有難い。なぜならば、まず患者さんのリハビリテーションを通してこうなりたいという思いが伝わってくることで自分自身のサービスの重要性を実感出来るからだ。そして、一筋縄ではいかない質問に対してああだこうだと患者さんと一緒に考えて試すことで見過ごしていた問題点を見つけられたり、いい練習方法を見つけられたりするからである。そして何よりそういうふうな質問をされる患者さんは納得した上で、その自主練習メニューをリハビリテーションのない日にも続けられるからだ。

 

訪問リハビリテーションは1週間のうちの本の少しの時間である。それ以外の膨大な時間の中で何をするかということが重要となってくる。担当する療法士にあれこれと疑問をぶつけてくる事はそのための一歩でもある。

賞与はありません

「ボーナス」の話題が出る時期である。ところが私は今の訪問看護事業所勤めて5年以上が経つがその間は夏冬通して賞与といったものを受け取ったことはない。収入は毎月の給与のみである。

 

もちろん入職時の説明で賞与が売上次第であると聞いていたので初めから賞与はないものとして働いていた。さらに退職金はないという説明も受けていた。それでも私としては訪問リハビリテーションしか他に働けそうな所がなかったので将来的な金銭についてどうすべきかいろいろ考えた。

 

まずは毎月の支出を抑えて貯金していくことは大前提として、貯金だけでは将来の資産は絶望的であることを再確認し、積立投資を行うことにした。そして共働きを継続出来るように家事や育児の分担を決めた。

 

それによって得ることも多かった。まず節約意識。次に投資や税金などの「お金」についての知識と経験。そして賞与も退職金もないことで、勤め先への過度な忠誠心はなくなり、気持ちは楽になった。

 

賞与も退職金もあった方が良いだろう。しかし人生には自分の力ではどうしようもないことがある。それに対して自分で可能な対策を考え実行することで、生きていく上でのたくましさをアラフォー世代になってもまだ成長させていくことが出来ることを実感している。

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年賀状は必要か?

私の勤めている訪問看護ステーションでは患者さんに毎年年賀状を送っている。そのためこの時期になると患者さんの洩れがないか、住所変更がないか、喪中ではないか等をチェックさせられている。

 

忙しいというのを理由にしたくはないが、年々この年賀状を出すという行為が必要か?という疑問が強くなっている。正直この年賀状は顧客サービスのひとつとしての”お礼状”の意味しかないだろう。私の所にも企業から年賀状がお決まりの挨拶文で送られてくるが、どの企業から来たのかもろくに見ず捨てている。

 

まだ親しい仲で、年長者との間では年賀状のやり取りはあるが、同じ年代や若い世代になると年賀状のやり取りはほぼ無くなった。

患者さんとしては私達の事業所から送られてくる年賀状をどう受け取っているのだろうか?

 

一時は事業所の売上が赤字続きということで、電気を昼休みには消すとか、事務機器が壊れたままであるとかという情けない状況を経験した。はたして年賀状はまだこの時代でも意味があるのだろうか?と思いながら無駄だと思える住所録等のチェックを行なっている。

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小児の訪問リハ〜知能について

生れた時に何らかのトラブルがあり、脳に障がいをもった子どものリハビリテーションでは注意していることがある。それはその子の知的能力についてである。

 

病院や療育センターなどのではその子どもについてカルテ等から多くの情報を得ることが出来る。一方で訪問リハビリテーションでは、主治医からの指示書に疾患名等の情報は得られるものの、圧倒的に情報量が少ない。両親に聞ける範囲での質問はして見るものの、医療職として欲しい情報にはたどり着けないこともあるし、親自体も分からない場合がある。

 

さて、身体機能については日頃からいろいろな人たちを診ているので評価出来る。しかし知的能力については大人のリハビリテーションではその機会は少ない。高次脳機能障がいや認知症などの場合ではそれに近い事を評価するものの、患者さんがどれくらいの知的障害者を持っているかは評価することはない。ところが小児の場合、彼ら・彼女らがどれくらいの知的能力持っているかを知ることは重要である。なぜなら、その子がこれから学校の授業についていったり、成長していく過程でどのような仕事に就いていけるのかを想像しながら、手の機能や移動手段がどうなれば実用的になるかを考えてリハビリテーションを行う必要があるからだ。ただ漫然と身体機能の維持改善を目的にするしていては長い長い人生にはリハビリテーションはあまり意味がないものとなってしまう。

 

小児の場合、日常生活動作ができることはもちろん大切だが、それ以上に生きていく術も何とか獲得することも大切になってくる。